不戦勝 3
人は大なり小なり、心に傷を負って生きているのではないかと思っている。それは、ざらりとした石になって心の奥底に引っ掛かっていたりする。
家族関係だったり、友人関係だったり、恋愛関係だったり、仕事関係だったり、環境だったり、状況だったり、、心の傷の理由は人それぞれだし、他人からすると些細なことだったりするかもしれない。
両親や、今日喧嘩した兄弟や、横で笑っている友達や、
呑気そうな彼女や、結婚10年目の旦那さんや、口うるさい上司や、隣の家の陽気なおじさんや、楽しくオシャベリしている電車の中の見知らぬOLや、、それ相応に心に傷はあるかもしれないけれど、自分の中のざらりとした石とは大きさや尖り具合が全く別物で、レベルが違うと思ってしまう(ことが普通に起こっている)
自分はお気楽に生きている誰かさんより、数十倍、数百倍、辛くてしんどい経験をしていて、お気楽な誰かさんは自分の苦しさや辛さに比べて50分の1や500分の1くらいの軽さだと考えてしまう。
自分の経験してきたことに比べたら、大したことはないと思ってしまう。
または、、大変さを想像はしてみたとしても、本当は全然足りていないかもしれないのに、それにも気づかない。
人は自分自身の物語の途中で(人生の中で)
ありとあらゆる経験を積む。
笑い、泣き、感動し、怒り、挑み、そして、物語の展開に期待してしまう。
でも、なかなか自分が思ったような状況や環境にはなってくれない。
途中でやり直したくても、留まっていたくても、どんどんと時間は流れ、やり直しも許されない。
そして、理想と現実に揺れてしまったりする。
誰かの物語を今だけ読んでもよくは分からない。(現在の最終ページだけ読むことはおすすめしない。)
おおよそ、大事なことは過去のページに書いてある。
そして、その時に、自分のざらりとした石と擦り合わせをしてみたら、はっと気づくことがあるかもしれない。
もう後がなく、前に進むしかなく、行くしかなかった時のこと。
それを超えてきたからこそ、今の安定した環境があること。
何度も何度も挑戦して、それでもどうしようもなく、諦めるしかなかったこと。
誰も解ってくれなかったこと。
現在が、正念場かもしれないこと。
その時にはじめて、お気楽に生きていると思っていた誰かも自分と同じように、苦しんで、耐えて、挑んできたことを少しは理解できるかもしれない。
そして、はじめて、自分の傲慢さに気づく。
お気楽に生きていると思っていた誰かから見たら、自分はお気楽に生きていると思われている誰かなのだから。